個性が許されるとは

2018/09/22

 個性が許される街・・・とは何だろう。

 りゅうちぇる氏の発言が、微妙に話題になったり、話題にならなかったりしている。

 

 個性が許される街になると良いな・・・ここには誤謬がる。

 それは、個性は許されるものではなく、勝手に発揮するものであるという点である。
 たとえば、力持ちという個性を持っている人は、その個性は内在的に常に存在していて、たとえばものすごい力仕事だったり、筋肉美を必要とする場面だったり、運動だったりといったところで、その個性を発揮する機会が訪れる。

 独創的な人であれば、日常生活の中でその独創性というのは、常に内在していて、何かの方法を考えたり、モノを作ったりといった場面で発揮されるのである。

 では、オシャレであるとか、個性的なファッションを身に着けることができるという個性について考えてみたい。
 この個性の発揮場所というのは、いわゆる「衣」の部分なので、毎日の服装の選択や、装飾品の選択と言った、日常的に発生する場面になってくる。

 これをクリエイター的に発揮している人は、服やデザインを作るに際して発揮しているのだが、氏はこれを自らの装飾に発揮し、それを身に着けて街に出ていく事を発揮の場としている。

 いかなる服装で、街に出かけようと法に触れなければ、日本国内においてはあらゆる服装が許される。
 それこそ、極めて変態的な小さい海パンを身に着けたオッサンがビーチにいても許される。隠れてれば。

 これを「許してほしい」というのは「個性発揮」と「他者承認」を混同している。
 基本的には許されている。

 氏の言う「許される街になってほしい」というのは、自分の服装を認めて、ちやほやしてくれる街になってほしいという意味が、後ろに見え隠れしている。真の個性は、他者の承認によって得るものではない。個性の発揮は誰かに認められる必要がある訳ではない。

 たとえば、多くの美術家たちが、その個性を遺憾なく発揮した作品を世に出しながらも、評価されるのは一握りである。

 承認・評価と発揮はイコールでは断じてない。

 翻って、氏のファッションが街で受け入れられないとしたら、社会的文化的背景と、その個性自体が発揮された時間・場所・状況において許容されうるかどうかという点に注目するべきである。

 たとえば、さかなクンは個性的なキャップで知られているが、弔いの場等においては、黒い被り物を使う事で知られている。これは、自らの個性たる象徴的キャラクター性を維持しつつも、TPOに応じてそれを発揮した好例であり、概ね好意的に迎えいれられていたように思われる。

 これは、彼が日ごろから一貫性をもって、是非にかかわらず自らのスタイルを貫いてきたからこそ出来るものである。

 もし「許容・承認」されたいのであれば、自らが個性を発揮する場所の「社会的・文化的背景」を踏まえて、そこに合わせて発揮の形を変える事で承認されるのではないだろうか。ちやほやされるのではないだろうか。

 つまるところ、この社会的・文化的背景上合致しているのが原宿であり、そこではちやほやされる。

 浜松町でやったらただのバカである。

 早い話が、活動する場所の「マーケティングをする必要」がある。

 

 世界中にガラケーを売るのにムリがあったように、地域ごとに歓迎されるものは違う。
 それこそが地域の多様性であり、ダイバーシティである。変化のないファッションですべてのTPOで受け入れられるとしたら、それはもう単一的な文化である。

 

 とまあ、長々書いてきたが、早い話が彼は「自己肯定感が低い」「承認欲求が強い」「他者承認への飢餓感がある」という、どちらかという己の内面に問題を抱えているように思われる。

 さらに言うと、少々「外罰的」であり「思い込みが強く」「こだわりも強い」という訳で、若干ながらスペクトラム障害のケがあるのではないだろうか。彼が生きやすいようになるには、ソーシャルスキルを学ぶ必要があるかもしれない。

 

 天の神様
 発揮と承認の混同が解決されるよう、父と子と聖霊の御名においてお祈り申し上げます。

 えいめん!

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